Howdy! Darling

何もしないから

「まずい!」 そう思った時にはもう遅かった。グレンは両手を頭をかばうようにあげて、身を縮めてしまっていたし、彼に向けて手を伸ばしたマイルズは目を大きく見開いて茫然としていた。
 タイミングが、良くない。
 グレンとマイルズは対策映画のライバル役という共演関係だ。グレンが心から欲した役を獲得したのがマイルズであり、以前からちょっと知っていて、ちょっと気に入らなくて、できればそれほど親しくなるつもりもない相手だった。
 でもマイルズに何の痂皮もなく、単なる自分の「気の持ちよう」だとわかっていたグレンは、内なるちょっとした泥水のようなものは見せないようにしてきたつもりだし、こんな風に。
 こんな風に怯えたような態度を取るつもりもなかった。こんな反射を表に出したことも、ただの一度もない。演技でもなければ殴られたことなんて、ないからだ。
 幸いなことに。
「び、びっくりした!」
 それだけだから! と慌てて言い訳をしようと態勢を立て直そうとしたグレンだったが、目の前のブラウンに明らかに傷ついた色を見てしまって、動きが止まってしまう。
「ごめん……」
 そんな風に謝るのもどうかと思いながら口にすると、マイルズは一つ頷いて、半歩後ろに下がって、ごめん、と同じ台詞を返してきた。
 単なる反射運動だよというのが正解ではないことぐらいグレンにもわかっている。
 そしてマイルズもわかっている。
「……気付いた?」
 傷ついた子供のような瞳からゆっくりと光が消えていくのがわかった。グレンはひくつく喉を恐れとは受け取られたくなくてぐっと奥歯を強く噛んだ。
「まあね?」
 絞り出した声は少しばかり震えていたけれど、今できる一番の強がりでもあった。じっと目を見つめ返し、彼の方から「答え」を引き出したかった。これは、俺のせいじゃない、という言い訳のためでもあり、彼が「自覚的」なのか確かめるためでもあった。
「……大丈夫、何もしないから」
 何が、と思わず声を裏返して反論してしまいそうになったけれど、ここでもなんとか堪えた。彼は認めるつもりがないんだろうか。まさか。
 グレン、こっち。
 そう言って手を引く時の力が動揺するほどには強めであることも。
 訓練の講義そっちのけでこちらを凝視することも。
 姿が見えなくなると、あちこちで「グレンは?」と聞いて回っていることも、全部。
 自覚的にあるに決まっている。
 今、しようとしてたのは?
「……嘘付き」
 どこに触れようとしてたんだ?
 グレンは色々を飲み込んで、それだけを口にした。グレンはスタジオの雰囲気が自分のせいで悪くなることを少しも望んでいなかったし、マイルズを傷付けたいわけでもなかった。
「まあね」
 同じ台詞を返すマイルズに、小さく舌打ちをしたグレンは、持ち合わせたホスピタリティをかき集めて首をかしげる。その仕草を目の前の男が好むことは確信していたので。
 ほら。
 なんて顔で笑うんだ、怖いよ。
 そんなに嬉しいの?
「……うなじがきれいだから」
「そりゃどうも」
「触っていたいなと思ったんだよ」
「進行形、怖い」
「怖がらないでよ」
「怖いよ」
 駄目とも良いとも言っていないのに、結局マイルズはグレンのうなじに手を伸ばし、今度はその目的を果たす。指の背で、それから指先で、くすぐるよりは少し力をこめた触れ方、思い切りに払い退けたって良いところなのに、グレンは再び舌打ちをするに留める。
 妹のレスリーが十三になった時にダディは言った。
 何もしないから、なんて言うような男を絶対に信じちゃ駄目だよ、と。
 ママは「男にかぎらないわよ、あなたを大事にしない大人の言う台詞よ」と、言い直した。
 こんなことを言う大人を絶対に、信じちゃだめだ。そんなことぐらいグレンは百も承知で、マイルズだって自分の身内にはそう言うはずだ。
 こんな触れ方をする大人は絶対に、駄目だ。
「きれいなのはうなじだけじゃないけど」
「……ノーコメント」
「たとえば」
「いいから」
「俺のこと嫌いなのに、俺に優しいきれいな心」
 それほどでも、とジョークにできればもう少し上手い生き方ができた、とグレンは自覚している。詰めが甘いんだろうな、とも。
 でも、それが自分なんだろうなという少しの諦めと少しのプライドもあって。
「君は悪くないからね」
 それだけは伝えておこうと、少し演技めいた笑顔で返す。
「そうかな」
 俺は悪者でもいいんだ、とマイルズは嬉しそうに喉を鳴らして、続けた。
「俺には君しか見えない」
 今度は嘘つきとは言えず、グレンは小さく唸ってすぐ横を歩く男に肘打ちをした。知ってる、わかってる、だけれどそれを認めてどうなるって言うんだ、とグレンは自問する。隣の男は一瞬身じろいだが手を離すこともなく、何なら鼻歌交じりで歩いている。
 それもまた何とも言えず嬉しそうで。
「馬鹿みたい」
「馬鹿でもいいんだ」
 何を言っても結論が同じになりそうなので、グレンは小さく息をついて「別に、本当は怖くないから」と呟くと、マイルズは「ほら、優しい」と歌うように言った。
 でも、君は。
 本当に君は馬鹿だな。
「……ヘイ……」
 目の周りを真っ赤にして涙目になるぐらいなら、なんで普通にできないんだろうと思った。
 たとえば、オフの日に海に誘うとか、クラブに踊りに行くとか、夕飯でもいいよ。飼い犬の散歩でもいい。
 そういう風に誘ってくれれば、それなりにと思うのだ、グレンも。
 でも、それでは他の人間と同じになってしまうと恐れているんだろう。馬鹿だな。
 君みたいな人が、二人といたらたまらないよ。
「手をつなぐんじゃ駄目なの?」
「手汗がすごい」
「何それ!?」
 馬鹿じゃないの!? ハハハ! グレンは思わず大きな声で言い放つと、抑えきれずに吹き出してしまった。本当に馬鹿で、頭がいかれてるとしか思えない。それが、何だか恋だとか愛だとか言うのかもしれないけど。
「……どうしたいのか言ってくれないとわからない」
「思い通りにしたいわけじゃない」
「じゃあ、俺が明日どこかのイケメンと婚約したら?」
「…………」
「あ、やめて、クリミナルマインドの新章はじまる、その顔は」
 まあでも、それもいいか。
 面白そうだし。
 グレンはそう言って、横目で死んだ魚のような目になってしまった男を見て、肩をすくめる。
 ため息も添えて。
 それがいやだと泣いてしまいそうな男の隣で。
「そんな宝物にはなれないよ、俺は」
 グレンがどこにでもいる、内心の偏屈な、外面の良さが取り柄の男だよ、と自己紹介をしてもマイルズはただこちらを見つめてくるだけだ。
 君しか見えないと。
「まあ……宝物かどうかは自分で決めるものじゃないか……」
 どんなガラクタでも大切にしているものは誰にだってあるわけだし。
「……手、つながないの?」
「つなぐ」
 ほら、貸して。
 と、グレンはマイルズの自分より少し大きな手を、内心の偏屈さで軽く腹を立てながら、しっかりと握りしめた。
 ワオ、本当にすごい手汗。
「あはは」
「……だから言ったじゃないか」
 好きな子と手をつなげるなんて考えてもいなかったんだから。
 そんなことを言うマイルズにグレンはもう一度声を立てて笑って、いいね、それ、と言った。
 好きな子ね。
「俺はまだちょっと苦手な子」
「それでもいい。……手をつなげるなら……なんでも……」
 馬鹿だなあ。
 天下のマイルズ・テラーが、五歳児のようにピュアだ必死な訴えを見せるなんて。こんなことのために、とグレンは思う。
「……そうだね、苦手だけど手をつなぐなら君とだよ」
 怖がってごめん、ともう一度改めて謝ると、マイルズは小さく頷いて、俺だって上手くやりたい、と掠れた声で言った。そうだよな、もっとやりようがある。
「少しずつでいいんじゃない?」
 たとえば、「グレンは?」と探す前に、おはようのテキストを送るとか。
 そこからだよ、とマイルズに言うと、マイルズは身を小さくして、二度、頷いた。うなじに不意に触れようとするんじゃなくて、少しずつ近くに座るとか。
 やりようはいくらでもあるんだけど、上手くやったところで心を許したかはわからないので。
 こればっかりは。
「なんか食いにいく?」
「いく」
 即答、ウケる。
 グレンはそう茶化した後、マイルズのうつむくこめかみのあたりに、そっと鼻先を掠め、囁いた。
「明日の婚約はなしにしてあげる」
 マイルズは潰れた蛙のような声を出したけれど、反論はなかった。
 空いた方の手で目の周りをごしごしこすると、良かった、とさっきよりもっと小さな声でそれだけを言った。
 グレンは悪い魔女になった気分だ、と内心で思いながら近い未来、自分の余裕もなくなるんだろうな、という予感に少しだけ顔を顰めたのだった。

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