What a beautiful day!
あいつとキスをした。
会話の中で、そう言えばな? と話題を探す前。
ほんの少しの沈黙の間にさりげなく触れるようなキス。それなのにあいつはわざとなのか、小さなリップ音を立てて余計にキスを意識させた。
そして、どうしてそんなことを? と、こちらが考えるより先に二回目のキスをしかけてきたのだ。
まるで二階級特進だ、と思わず呟きそうになって、俺はごくりと喉を鳴らした。いくらこの状況が青天の霹靂で、まさに稲妻に身を貫かれたような衝撃を受けていたとしても、絶対に言ってはいけない台詞ということぐらいわかる。俺はデリカシーのない人間だと思われがちだが、馬鹿ではない。
おそらく。
あいつの父親は「そうなった」はずなのだ。
そして、一度もそう呼ばれることのなかった階級名が墓石には刻まれているのだろう。
ただ、誠に遺憾ながら。
喉がただ、上下するだけの動作が「欲しがり」の仕草だと思われ、すぐに三度目のキスがはじまってしまった。息ができない程、心拍数が跳ね上がっている。
でも、言葉を奪われていて本当に良かった。
その他にも口にすべきではないかもしれない、色んなことが溢れ出してしまいそうだったから。息が出来ない、と言う訴えなんかではない。
ずっとずっと秘密にしていた大切な言葉のことだ。
「……ルー……」
それに、この通り、名前すらろくに呼べなくて語尾が掠れてしまったわけで。
口の中に溢れる唾液をどうすればいいのか、キスのやり方は知っていたはずなのに全部がリセットされてしまったような気持ちだった。頭のてっぺんから指先、爪先まで自分のものでないような感覚。
これを人は浮き足立っていると言うのだろう。
もう一度こくり、と喉を鳴らすとあいつは嬉しそうに目を細めてこっちを見つめた。
なんていう目で見るんだ! そんな風に叫びそうになっても、誰が俺を責められるだろう。
俺とあいつの関係性を知っていれば誰でもが考えることだ。外野がいたら、すぐにも囃し立てられたはずだ。
だけれどバーカウンターの俺達を、今、世界がほったらかしにしている。空のグラスにテキーラをついでもくれない。
キスがいつまでも、やまないからだ。
少なくとも俺はあいつにそれなりに嫌われていると思っていたし(それでもあいつの弱点を突かずにはおれなかったが)(死なれると困る)(それだけは絶対に避けなければならない)、あいつはそんなことないと言いながらも他の連中を相手にする時の態度と俺の扱いは明らかに違っていた。
鷹揚で、陽気で、親切で、クレバーで、一緒にいると最高に楽しい。
そんな評判の男が、俺の前ではいつでも、困ったような、呆れたような、苛立つような、うんざりしたような、そんな顔ばかりだった。
いくらも思い出せるが(激しく燃え上がるような強い怒りはまだ新鮮に記憶に刻まれている)、見つめ合ってキスに至るような感情は、どこにも見て取れなかった。
特別任務を機にいけすかない口うるさい(もしかすると最低な)同僚から救世主になり、そこからさらにクラスアップしたのだと言うのなら、これから先の関係を何と呼ぶのだろう。
俺の認識が常識と近いものであれば、友情でこういうキスはしないはずだ。
三度目のキスはとても長く続いた。しとしとと降る秋の長雨のように。少し厚みのある唇はそこが定位置とばかりに居座り、俺の口の中を探検し尽くそうとする舌は熱く、普段の俺と同じぐらいよく動いた。
「……謝らないけど」
手練れだと思っていた男はまるで少年のように目を輝かせ、頬だけにとどまらず耳の先まで紅潮させてこちらを見つめながらも小さく唇を尖らせた。
それだけで俺は胸がいっぱいになり、その尖った唇の先に、四度目のキスを仕掛けたくなってしまった。
この気持ちはあれだ。
幼い頃から大切にしていて、一緒に眠っていたお気に入りのテディベアを抱きしめるのと同じだ。愛おしくて、たまらない。
だけれど、これは現実なのだろうか?
「……謝らなくていい……」
それでも俺は、馬鹿ではないから頭の中ではわかっているのだ。
ミッション後、俺はあいつを言い負かすようなことを仕掛けることはなくなって(何しろ俺が求めていたままの彼を引き出すことができたからだ)(俺ではない誰かのおかげで)、帰りの空母の中では同室だった。
自然と普通の同僚のように話すようになった。それはまったく悪くない気分だった。
言い争うことは一度もなく、寝る前に少しどうでも良いことを話し、小さく笑い合っていた、と思う。
こっそり夜中に、あいつがどこからか貰ってきたチョコバーを食べたことすらあった。
十代の時ですらやらなかった、悪いこと、だ。
仲良くなったね、と人からは言われるようになったが、当たり前のように「別に、同僚だからな」と答える。まるで他意なんかないように。
そのくせ帰港してからは何度か誘われるままに食事には行った。数人の仲間もいたが、馬鹿騒ぎするようなこともなく、穏やかに食事をしていたと思う。
あいつの選ぶ店はだいたい美味くて、この辺りに土地勘があるのを窺わせたし、翌日必ずどうだったかと聞かれた。
美味かったよと言えば、良かったと目尻に皺を寄せて、屈託なく笑ってくれた。
そんな他愛もない会話を、寝る前に何度反芻しているか、あいつは何も知らない。
ただの同僚だからだ。
そうだろう?
それなのに、だ。
いつの間にかハードデックでもあいつは、俺の側で飲むようになった。俺がビールを取りに行く時は後ろをついて回っていて、帰りは宿舎まで送るとまで言い出した。
結局酔い覚ましの夜の散歩のようなものをもう何度も繰り返している。
それがしたくてハードデックに行っているようなものかもしれない。いずれ終わりが見えているだけに、すがるような気持ちだった、とも言える。
誰にも話していない。話せるわけもない。だから、あいつだって何も知らないはずだ。
それなのに。
俺があいつを挑発するために近づけていた顔は、まるで今までが当然そうであったかのように、向こうからぐっと近づけられるようになっていた。
その距離がいつの間にか「日常」になりつつあって、 ついにキスに至った。
だから、三回分のキスが酔ったせいだとか、何らかの罰ゲームだとか、俺をからかおうとしているのか、そういうものでないことぐらいはわかっている。
馬鹿ではないのだ、俺は。
それに。
「よかった……」
あいつはキスの後で、俺の頬に大きくて肉厚な手を添えたまま、親指で。少しかさついた指先で。
俺の目の下の肌の薄いところをそっと撫でた。
それはこの世界でいちばん優しい指先の動きで。
だから、ここが仮に天国であれば「理解」できると思ってしまったのだ。
どうして、俺が、あいつに優しく触れられるような存在になり得たのか。理由があるのなら教えて欲しいと願った。
それをとても当人には尋ねることができないまま、俺はあいつの言う「デートのお誘い」に、わかったと頷いていた。
まるで操り人形のように従順だ、と思いはするけれど、抵抗できなかったのは、耳打ちされた瞬間、俺の周りには重力がなくなったせいだ。
そのことをどうかするほどキスがうまい同僚は、知るよしもない。
「ルースター……」
だけれど、かろうじて呼び掛けることができたその響きにその同僚は二、三度の瞬きをした。
わかっている、の合図だ。
そして俺を慈しみ、愛してやまない、とでも言うようなその眼差しで、こちらを見つめた。
まるで。愛しているとでも言うように。
*** *** ***
始末書の山をどう倒したのかは知らない。
ルースターは思っていた以上に、帰還後のモラトリアムを楽しめる状態らしい。
デートには少し遠出がしたいというので了解したが、官舎まで迎えに行くというのは丁重に断った。
彼はどこかに家を借りていてずいぶんと気楽だ。しかし、こちらも悪目立ちはしたくはない。
俺が考えているのは、いわゆる「デートの後」どういう顔で、ここへ戻って来られるのか、だ。まだ「最悪」のシミュレーション結果しか出せていない。慎重に行かざるを得なかった。
ただ、この俺が婉曲的に、むやみに誤解されないように、万が一にも悲しませないような言い回しをして、どこかの店で待ち合わせをしようと告げたのは、最悪を回避しようという一貫だとわかって欲しかった。暇を持て余した官舎にいる連中に冷やかされでもしたら、どうなる。
ルースターがそんなことぐらいで気分を害するような男でないことぐらい承知しているが、俺が、今の俺がどうなるかわからないのだ。
あの時の電話の向こうのルースターがどんな顔をしていたのかはわからないが、俺の方はとても人には見せられないものだった。コヨーテにだって無理だ。
今にも泣きそうなんて顔。
どこの誰にも見せるつもりはない。
それなのにルースターがあの日、三回もキスなんかするからどこかでおかしなスイッチが入ってしまった。おかげでちょっとしたことで胸が痛み、電話やテキストのやりとりだけで脈拍が跳ね上がる。
あまりにも鬱陶しいので、スマートウォッチはランニングだけの出番になった。
眠りも少し浅くなった気がする。昨日の夜はどれぐらい寝返りを打ったか知らない。
こんなのは自分ではない。
もっと上手くできるはずだ、ずっとそうしてきたのだからと言い聞かせながら、朝起きてからはすでに三度シャワーを浴び、そのたびに違うコロンをつける羽目になった。今まとっている香りがベストだと良いが、正解はわからない。
着ていく服は、五回変更して、結局ボートネックのボーダー七分袖のTシャツに落ち着いた。ネイビーのパンツは、珍しくくるぶしが出る長さだ。初デートらしい、とジョークにできるようならよかったが、難しいことだろう。
それから、キスの日以来、ずっと気になってどうしようもなかったので、やたらと気取った歯医者に飛び込んで隅々までクリーニングをしてもらった。海軍士官の貯金はこういう時に使わないと甲斐はない。
美容院では生え際とうなじを剃刀であたってもらい、そこでもまたシャンプーとトリートメントを念入りにして、セットも完璧に仕上げてもらった。
何をしているんだか。
鏡の前の自分は、朝に一杯のスムージーを飲んだきり、昼食も抜いて今に至っている始末だというのに、輝かんばかり、の仕上がりだ。
空腹にも睡眠不足にも耐えられる鍛え方をしていることが良かったのか、どうかはわからない。
期待しているのか、といつもの俺が俺自身を嘲笑っている気すらしてくる。
四回目のキスのその先を、期待?
まさか。
俺はルースターの夢見心地を守りたいだけだ。
腰に添えられた手、最近よくやるようになった、すんと首筋を嗅ぐ仕草に俺は卒倒しなかった自分を褒めてやりたいぐらいだったが、どうにか堪えてきた。今もやっぱりコロンがきつすぎないか、汗の匂いで嫌な変化をしていないかばかりが気になっている。
サンセットと月を見に向かうというビーチはそれ程遠出というわけではない。それでもルースターは自分の車に乗せるつもりだろうし、待ち合わせは官舎からそう遠くないところにあるビーチ沿いのカフェに十六時だ。
もう道路を挟んだ向かい側にいるが、よく賑わっていて雰囲気のよさげな店だった。
ルースターがコーヒーが美味しいと評判の店だというから、今日はまだ一杯も飲んでいない。
それにここまで綺麗にクリーニングした歯のことを考えるとあの色の液体を口に含むのは少しばかり遠慮したい、という気持ちもある。悩むところだ。カフェラテにすれば少しはましだろうが。
スマートウォッチでない腕時計が刻んでいるのは、十五時になるか、ならないかの時間。
カフェに入ることも出来ず、かと言って車ならばすぐに駆けつけられるだろうルースターに「もう着いた」と知らせることも出来ず、遊歩道のパームツリーの影で立ち尽くしている俺は何という間抜けだろう。
こんな姿も、今まで誰に見せたことはない。
できれば、ここでルースターが現れるのを確認してから、店に入りたい。
先に席を取り、座って待っていたとして、そこで待ち合わせの時間が過ぎるのを見届けるのが嫌だった。
だいたいここだってビーチ沿いだ。夕日だってきれいだろう。
でも、ルースターが選んだのは少し先の、その名もムーンステートビーチで、俺は今夜外泊届けを出している。
認めろよ、これは期待だ。
俺は自分に向けて内心でそう言い放ってあまりの浅ましさに頭を抱えそうになるのを奥歯を噛みしめてやりすごすしかなかった。待ち合わせをすっぽかされる想定をしながら、何を考えているんだ、と。
「ねえ」
冬になったとは言え、まだまだ温かいというよりは暑いとも言える太陽の光の下で、何をするでもなく、はたから見ればただぼうっと立ち尽くしているだけの男に声をかけてきたのは、まだ声変わりも迎えていないような、少年だった。
小柄ではあったが腕や足は長く、大きな靴のサイズ、こちらに向けて差し出したアイスクリームを持っている手は大きく、将来は大柄になるだろうことを思わせる、子犬のような少年だった。
もちろん、この街に知り合いはいないし、見知らぬ他人だ。少し大きめのTシャツに、膝の覗くハーフパンツ。どこにでもいる、坊やだ。
アイスクリームは、見たところバニラ、ストロベリー、おそらくはピスタチオ。
「……ええと、俺に?」
不機嫌そうな仏頂面、唇を尖らせてこちらを見る目は大きくて丸い、黒目がちの瞳。
十二、三歳だろうか?
「そうだよ、今買ってきたんだ、食べなよ」
毒とか入ってないし、あそこの店。俺のベビーシッターが急なバイトに行かなきゃいけなくなってついてきたんだ。だから大丈夫。
そう少年は早口で、やっぱり不機嫌そうにそうまくし立てると、ずいっと三連になったアイスをこちらに押しつけようとしてきた。もし彼がスパイか何かで俺の命を狙っている、とかでもなければ問題はなさそうだ。ベビーシッターらしき少女が「遠くに行かないでよ!」と言っているのが聞こえた。
適当に話を合わせて家で留守番していればいいのに、不機嫌な顔以上に真面目で優しい子なのだろう。
俺は警戒する意味もないな、と表面がうっすら溶けかかっているアイスを受け取った。
「ありがとう、腹が減ってたんだ」
「ふぅん」
わりと美味しいよ、と言う坊やに俺は一口、ピスタチオだった、かじって「本当だ」と笑いかけた。
「どうして俺に?」
ぱっと赤く染め上がった丸い頬は、誰かに似ている。これ以上ない「不機嫌」の膨れ面が一気にトマトみたいに真っ赤になった。
「泣きそうな顔してたじゃん」
「……ん?」
「そこのカフェに誰かいるんだろ、会いたくない人とか……」
会いたい人、とか。
と、小さな嘴のようにとがった唇からつむがれた言葉は、彼がただの坊やではなく、おそらくは「恋」を知っている坊やだということを伝えてくれた。
油断してたな、と肩をすくめて「泣かないよ」と俺は続けた。
「人前で泣いたことがほとんどない」
「大人になってから?」
「いや……君ぐらいの時からだな」
寄宿学校に入ったのはもう少し前だろうか。
あの日からずっとだ。
「電話貸して」
「あ、ああ」
会話に脈絡がないのはまだ子供、というところなのだろう。彼は、ブロンドのポニーテールのベビーシッターのお守りが必要で、でも見ず知らずの「泣きそうな」男にお小遣いを使ってアイスクリームを買ってくれる優しい子だ。
そして、とても今時だ。
ぱっと俺のセルラーを手にすると、顔を寄せてきてあっという間にセルフィーを撮って、そのまま何やらを打ち込んでいる。
「俺のアカウント、登録しといたからさ。アイス食べたくなったら呼んでよ」
「ふ……、そうだな、ありがとう」
美味しいな、と微笑みかけるとまたすぐにトマトのようになる。
どうやら俺の美貌は(自分でその点を自慢することはないが)(本当だ)客観的に見て褒められる部類のそれだということは理解している。
とは言え、子供をからかっているつもりはない。
気持ちがぐっと楽になったことへのお礼だ。
「俺ならさ」
アイスをしっかり食べ終えたところを見届けた頃合いで、ブルネットの巻き毛の坊やは、さっきまでよりさらにちょっと高い声で、不満を口にした。
「ん?」
「俺なら、あんたみたいな美人を一人にしないし、そんな泣きそうな顔もさせないけどな!」
わめくように言った台詞に、自分でもびっくりしたのか大きな目を見開いてこっちをじっと見つめている少年は、雷に驚いた猫のようでもあり、やっぱり子犬のような愛くるしさもあった。
もし自分に弟がいたら、もしくは俺も良い歳だ、こんな子供がいたら、どれだけかわいがってしまうだろう、と思わずにはいられなかった。
とても良い子だ。
俺が美人であることは否定しないが、クラスメイトにも目を向けてみることを勧めたいところだ。
アカウントの名前は、ピザボーイ666、なんだそれは。
それでもピザ好きの悪魔の申し子は、俺にとっては天使だと思えるほど、優しい子のようだ。
「大人と一緒ならいいんだし、いいよ。かわりにデートしてあげても」
バイト、十七時までだって言うしさ。
「そうだな、ちょっと散歩に付き合ってもらおうか」
「いいね!」
一時間はまだ時間はあるわけだし、アイスクリームを食べた口の中をレモンの入った水でゆすぎたい気持ちもあったので、と歩きだそうとした時。
「よくない……!」
そこに、今いるはずのいない男が現れた。
「何言ってるんだよ、ハングマン……!」
汗だくで、髪もろくにセットしていないような、男。
一時間後に来るかどうか、わからなかった男。俺の待ち合わせ相手のルースターだ。
「あ、来た、早」
少年はびっくりしたようにまた目を丸くしたけれど、さほど動揺しているわけではないようで。
「知り合いか?」
そう尋ねると悪びれるわけでもなく、肩をすくめた。
「違うよ。ただ、これを送っただけ」
新しいボーイフレンドと一緒、というメッセージとさっき撮った写真とともにルースターに送っていたのだと白状した。どうしてルースターの宛先を、と聞くのは野暮だ。ティーンのセルラーを駆使する能力はちょっとした魔法のようなものなのだから。
下書きに山ほど貯められた「送ろうと思って送れなかった」メッセージも見たのかもしれない。
恋に一番近い生き物であるティーンが気付かないはずがない。
「よかったね!」
やっぱり不機嫌なのは変わらず、でも不意に現れた俺の天使は、どうやらキューピッドだったのかもしれないが、こちらも不機嫌を珍しく隠そうともしていない男の前で「べー!」と舌を出してしっかり煽った後(とてもかわいらしい仕草だったが)、お守りがうるさいからさ! と言ってくるっと背を向けると、アイスクリームショップの方へとそのままあっという間に走っていった。
そして俺がルースターの方へ向き直る前に「がんばって!」のテキストが送られてきた。
すごいな今の子は、あんな風にでたらめに走りながらテキストを送れるらしい。
それで、あの。
ええと。
「……おまえは……知ってたのか?」
まだ、声変わりもしていないような子に。
どうやらルースターは嫉妬しているのか、じっとりとした今まで見たことのない視線をこちらに向けている。
ふ、と漏れた吐息が合図になったように、俺は声を出して笑ってしまった。
「はは、ルースター……! おまえ……、ふふ……」
だって自慢のアロハシャツは裏返しになっているし、髪だって濡れたままだ
慌てて、あのテキストを見て飛び出してきてくれたのは、確実だった。
そうか、おまえもデート前にシャワーを浴びてくれたのか!
「……子供相手に大人げないぞ?」
そう言って頬にキスをしてやると、ルースターは喉奥で小さく唸って、彼もまたトマトのように顔を真っ赤にして、唇を尖らせた。
だって、の顔だ。
そして今さらながらにさっきのピザ好きの悪魔の申し子が、目の前の男によく似ていたことに気がついた。
寄宿学校時代に会っていたら、あんな感じだったのかもしれない。
学年が違うから、かわいがってくれただろうか、喧嘩ばかりだったろうか。
でもきっと、優しかったはずだ。坊やのように。
「デートをしよう、ルースター」
一気に糖分を摂取したから、少しハイになっているのかもしれない。俺はそう言って、ルースターの手を取って歩き出した。
少し先に止めてあるのが見えたからだ。
青空と同じ色の、彼の車。
「美人を一人にするなって言われたぞ?」
ウィンクのおまけをつければ、一気に加速したルースターに手を引かれるのはこちらの番だ。
やっぱり浮き足立っているのだろう。最悪のシミュレーションはしまい込んでしまってもいいかもしれない。三連アイスのご加護かもしれないが、耳まで真っ赤にしたルースターに嘘がないことぐらい、もうわかっているのだ。
大丈夫みたいだ、坊や。
会いたい人に会えたよ。
*** *** ***
サンセットは手を何度も繋ぎ直して、ルースターが俺の手の甲や指先にキスをして、好きなんだけど、の視線をちらちらと投げかけてくるのを受け止めたり、少し外したりしているうちに、あっという間に海の向こうへと消えてしまった。
人の多くなってきたビーチから少し歩いて、月明かりだけが届くようなところまで、俺達には会話はなかった。
ただその沈黙に俺の胸が痛むことはなかったし、このままLAまで歩いて行ったっていい、ぐらいの気持ちだった。そこまでして、足が棒のようになりでもすれば、夢じゃなかったと確信できるから。
いや、違うな。
もう確信は得ている。
少し歩いては足を止め、キスをして、ルースターの手は、指先は俺の顔やセットした髪や、すべすべになった項に触れている。
彼は鈍そうな顔をしていながら、すべてに気付いた。
俺の努力と、不安に。
「……言葉にしたくない?」
見つめあって、シロップがこぼれそうなぐらいの濡れた目で見つめられて、吐息と同じ数だけのキスが繰り返されれば、もう十分だと言ってもいい。
でも、俺達は。
言葉にしなかったことを後悔するような生き方をしていて。
つい先日、その後悔にニアミスしたばかりだ。
「したい……」
上擦ったそんな声を初めて聞かせるにしても、だ。
もう隠すことはできなかった。
「いいにおいだ……」
「正解だった?」
「おまえのにおいはなんでもいいにおいだ」
「馬鹿だな、ルースター。それは減点だ」
「俺は加点式に強いタイプだから」
ああ、優しく項を撫でないでくれ。
嘘だ。
撫でて欲しい。腰を押しつけられるのも、悪くない。
ううん。
好きだな。
スウェット履いてくるつもりはなかったんだろうけど、スウェットだから、いい。
「あの子はな、俺が泣きそうに見えたって言って慰めてくれたんだ」
「泣かないで」
俺を見て、と指をまとめて握りこまれて、それから音を立てて指先にキスをして、人差し指の先をほんの少し囓られた。
「泣かない」
「……でも、泣かせたいな」
支離滅裂な会話なのに、止めたくない。月明かりの下でのチークダンスを、将来俺は誰かに話すことがあるんだろうか?
こんな美しい時間はない。
「……それに坊やの言う通りだ。おまえは美人だから俺と離れないほうがいい」
軍人同士の戯れの睦言というよりは少し真剣な声で言うものだから、
「一回目のデートはキスまでなのに」
と、茶化しながらも頬をルースターのそこにすり寄せる。
小さくセルラーが震えて、画面には「上手く行った?」という文字が見えたが、すぐにルースターに取り上げられてしまう。
「返事は?」
「今日は人生で一番、最高の日」
「……そう?」
「そう」
じゃあ、許す。
なんて言って、返事を勝手に送ってしまった。絵文字はなし、と呟きながら。
「俺にだけ使って」
ろくに会話に入って来ないのに、グループチャット内で絵文字を使わないのが俺だけだということを知っている。
キスまでだと言っているのに、腰を撫でる手はずいぶんと性的だ。
でも、キスだけだ。
もったいぶっているように見えるか、と伺うとその目が「最高」と瞬いている。
何となくわかってきた。
「……いいけど?」
「やった」
と、言いながら瞳からの信号は、今度は少しの不安だ。一回目のデートで開示するには大きすぎる「独占欲」を見せているせいだろう。
そうだな。おまえがお高く止まった俺を思った以上に気に入ってくれているように。
「……そういうのが、好みのタイプだ」
ということなので、きちんと言葉にしてやる。
「……きれいだ、本当に」
愛してる、の囁きが波音に紛れることはなく。
たぶんそれは同時に発せられたもので、甘いキスの中で溶けていく。
そうだ、俺はこの男をずっと愛していて、それで、ルースターは。
ルースターは?
キスは嘘じゃない、愛してるだって、嫉妬も全部嘘じゃないことはわかった。体の中心にすでに兆してる熱も、そうだ。お互い様だし、今日はキスで終わるが、二回目のデートまで忘れられないと思う。お互いに、火種を抱えて過ごすのは、危険かもしれないが。
おまえ好みなら、そうしてやろう。
三回目までなら、待てる。
おまえは?
俺は強引なのも、悪くないと思っているけれど。
「鈍いな……」
ルースターは、どんな飲み物よりも(申し訳ないけれど今日食べたアイスクリームよりも)甘い声で、こう続けた。
「最初からずっとだよ……」
触れあったところから俺はグズグズに溶けてしまいそうになりながら、キスをねだるように、ぴかぴかに磨いた口の中を見せつけるように開いた。
舌だってそうだ。
「……ずっと?」
全部好きにしてくれ、という感情の高まりが押し寄せてくるのがわかる。
「ずっとだ……」
そうだ、こいつは他の誰にも俺に見せる態度はとっていなかった。
困ったような、呆れたような、苛立つような、うんざりしたような表情は全部、俺にだけ向けられていた。
そこに、あったんだ。ずっと。俺達の間には、ずっと。
「……十年分のキスが必要だ……」
かろうじて、つむいだ「高慢」らしい台詞は、ルースターをさらに喜ばせた。一気に世界は重力を失い、俺はすべてをルースターに明け渡した。
言った通り。
今日は人生で最高の日だ。
そして、どこまでも熱くて甘いキスに酔いながら、俺はその先の未来を当たり前のように夢見ることができると思った。
もう、待ち合わせ前に立ちすくむことはないだろう。
だってこのキスは熱くて、甘くて、必死で、身勝手。どこまでも俺を欲しがろうとする、キスだ。
俺を愛してないとできないキスだから。
言っただろう?
俺は馬鹿じゃない。
全部わかっているんだ。